番組制作者の声

沖縄テレビ放送
報道制作局 報道部アナウンサー
平良いずみさん

2020.3.24 tue

メディアに興味を持ったキッカケ

漠然とメディアに進みたい、とは思っていたのですが、1995年に沖縄の米海兵隊員が起こした少女暴行事件を取りあげたTBSの『ニュース23』を見たのがきっかけでした。キャスターの筑紫哲也さんが、(沖縄の音楽グループ)ネーネーズの「黄金の花」をエンディングテーマに使ったり、(八重山民謡歌手の)大工哲弘さんが「沖縄を返せ」という歌の「沖縄を返せ 沖縄を返せ」という歌詞を「沖縄を返せ 沖縄へ返せ」と替えて歌ったことを取り上げたりしていて、「テレビってすごい、くだいて説明してくれるので考えるきっかけを与えてくれる」と思ったんですね。

アナウンサーを目指したのは?

テレビ局を受けた20年前には、女性の記者職の採用が少なかったので、大学の指導教官がアナウンサーも希望してみたらとアドバイスしてくれたんです。全国津々浦々受けたんですが、最終的に沖縄のテレビ局だけ受かったんです。

沖縄テレビに入って

もともと記者志望だったことや、沖縄テレビではアナウンサーも報道部の所属というのもあり、ほとんど記者と仕事の内容が変わらず、画面に出ているのが1割で、9割が記者みたいなものでした。テレビは音も含めて伝えるので、ナレーションなどアナウンスという音声で伝える仕事の魅力を知りました。

アナウンサーとしての日々

アナウンサーとしてデビューするいわゆる「初鳴き」は、入社して3カ月目の7月1日、JTA(日本トランスオーシャン航空)の就航という明るいニュースだったんですが、ものすごく暗い読み方をしてしまいました。他にも「めざましテレビ」の沖縄中継レポーターを担当していた時、「ピタゴラスイッチ」のような装置を作り上げる家族を見守っていたおばあちゃんが、見事成功し涙した際、「熱いものが込み上げ“目頭”を押さえていらっしゃいます」と言うべき所を「“目尻”を熱くしていらっしゃいます」と言ってしまい、感動のシーンを台無しにしてしまったり、全然言葉が出てこなかったり、本当に失敗の連続でしたね。

ドキュメンタリーを作るようになったのは

現場で教えてもらうというか、普通のニュース取材で行った先で、沖縄の過疎地域で学校がなくなり、それを福祉施設としてよみがえらせるという取り組みを知って、それを追いかけて『過疎の村に響く子守歌』(2006年)を作りました。

沖縄テレビで『島の美よう室』『カントクは中学生』など多数のドキュメンタリーを手がけた山里孫存(まごあり)さんは、ずっとプロデューサーとして画のセンスがない私に惜しみなく力を貸してくれる存在です。徹夜で編集した映像を見せた時、「画(え)のストーリーが組み立てられていない。全然ダメだね」って3秒で席を立たれたり、孫存さんに厳しく指導してもらったのは大きいですね。特に1作目は福祉施設をよみがえらせるという穏やかなものだったので、孫存さんから「自分で小説みたいにストーリーをまず書いてみなさい」と言われました。ドキュメンタリーって“海図のない航海”っていわれるぐらい先が分からない不安があるんですが、ストーリーを考えると、目の前の現実が見えてくることを教えられました。

ドキュメンタリーの面白さを感じたのは

ドキュメンタリー1作目の取材をしているとき、県立の診療所が予算カットのために閉鎖されることになり、説明会を開くという話があって、那覇から車で3時間半かかる場所だったので、ちょうどそこに居合わせた私たちだけが取材できました。穏やかなおじいさんたちが「私たちはいいが、孫や子が病気やけがになったらどうするんだ」「救急車が2時間かかるなかで、診療所を閉鎖するのか」とものすごい剣幕で怒っているシーンに出会って、「これを伝えないと」と思ったんです。

その後、私立の救急病院がドクターヘリを飛ばす事業を始めると聞き、5年ぐらい追っかけて番組にまとめたんですが、編集やMA(音の最終調整)の仕上げの前日、、突然病院の院長が解任されてドクターヘリ事業が中止になることになったんです。そのままOAするか、その事実を追加するのか、「そこには触れないでいこう」という構成作家と、「地元の人が必要だからとの想いで追ってきたのに…」という私とで激論になり、最終的に作家さんが折れて、「最後の1分半をあなたにあげるから」って言われて、変更しました。

放送終了後、沖縄テレビの電話が鳴り止まないぐらい支援の輪が広がっていって、その後、医師がNPOを立ち上げたり、たくさんの寄付が集まったり、テレビの力ってすごいと感じました。

「どこへ行く島の救急ヘリ」より

ローカル局の強みは

一人で何でもできるという点でいい職場だと思います。ドキュメンタリーの企画書を出すと、「いいよいいよ」といわれる自由度の高さがあります。

今回の映画で撮影させてもらっているフリースクールは、前作『まちかんてぃ~明美ばあちゃん 涙と笑いの学園奮闘記~』の時から、5年ぐらい取材を続けてきました。「戦争しちゃいけない」って言うけど、なんでいけないのかということを考えるのに、テレビは「今」を伝えないといけない。そこで戦争で学校に行けずにつらい経験をしてきたおじいちゃん、おばあちゃんたちが通う夜間中学を取材して、学校でキラキラと勉強している現在の姿と、なぜ学校に通えなかったのかという過去を対比できればと思ったのがきっかけです。通常のニュースが終わってからカメラを持って取材に行ける。ローカルなので地道にコツコツやれるんです。

「まちかんてぃ」より

地道な取材がつながった

前作を撮っているときに、能登半島で生まれ育った坂本菜の花さんという少女が学校に通うようになったのですが、菜の花さんは沖縄からふるさとに向けて地元紙でコラムを書いていました。「すごい子が来たな」って思っていたんですが、その時ちょうど私は育児休暇などで2年ぐらい自分では取材できない時期でした。でも幸いなことに、一緒にやっていたカメラマンが定点観測で入学式からずっと撮影していてくれていたんです。ローカル局ではカメラマンもカメラマンリポートなどで主体的に動いているので、こうしたチームワークが生まれました。

菜の花ちゃんは、とっても平易な言葉を使うんですけど、驚くほどストレートに心に届くんです。受け止めて書く、紡ぐ言葉がずしんと皮膚感覚に響く、この言葉をどう生かすかだと思いました。孫存さんにも「とてつもない子と出会って運を使い果たしたな」と言われるほどでした。

「菜の花の沖縄日記」より

映画公開という形に

本土の若い人たちに沖縄と戦争について知ってほしいと思って、ドキュメンタリーの師と仰いでいる、数々のドキュメンタリーを作ってきた元フジテレビの横山隆晴さんが近畿大学の教授をしている縁で、その学生さんに聞いてみると「沖縄のこと知らなければと思っても、基地や戦争のこと描くドキュメンタリーを見ていると、いつも同じ様なメッセージのため2分でチャンネルを変えてしまう」と言われました。「どういうのが見たいの」と聞くと、「若い人の本音を見たい」と言うんです。ただ沖縄は分断が進んでいて、公立校の高校生に取材しようとしても、親族などを傷つけてしまうこともあるので、ノーと言われ、特定の方しか取り上げられない。そこで菜の花ちゃんの目を通して沖縄を伝えられると思いました。

沖縄テレビで放送した番組をドキュメンタリー大賞のノミネート作品として全国ネットで放送するのですが、どうしても遅い時間などになってしまいます。東海テレビが『人生フルーツ』『さよならテレビ』など、テレビのドキュメンタリー番組の映画版として劇場公開して成功しています。テレビはテレビならではの偶然見てもらって人生が変わる力がありますが、全国に届けたいというところで映画という力を使おうと思いました。

沖縄で先行公開して、3000人動員できればと思っていたら、最初の1週間で1500人動員できました。見ていただいた方が「ウチナンチュー(沖縄の人)が言いたかったのはそういうことなのよ」と泣きはらしたのが切なかった。何度、選挙で新基地反対の民意を示しても、沖縄の声は国に届かない現状はやりきれない。やはり全国の人に見てもらいたいですね。

「菜の花の沖縄日記」より

http://chimugurisa.net/
(映画「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」)

今後の夢

言葉がポンポン出てくるタイプではないので、先輩たちが作ってくれた「取材をしながらキャスターを務める」道を歩んで、取材をすることで言葉に説得力が出るように、ただひたすら取材をして沖縄のことを伝えていきたい。沖縄の声を伝えていきたいですね。

テレビを目指す皆さんへ

テレビは間口が広いので、馬鹿なことを考えて、突拍子もない企画も提案してほしい。純粋な気持ちで、伝えたいという情熱を持っている人と一緒に仕事をしたいと思いますね。

プロフィール

1977年生まれ。琉球大学で社会学を専攻。1999年沖縄テレビ入社。現在は平日夕方の「OTV live News it!」のキャスターを務める。
2006年に初のドキュメンタリー番組「過疎の村に響く子守歌」を制作、その後、医療・福祉・移民・原発・基地問題など一貫性のないテーマでドキュメンタリーを制作。共通するのは、主人公が社会や人のために闘う人!ということのみ。
主なディレクター作品に「ヘリコプターを私にください」(2009・FNSドキュメンタリー大賞 特別賞)、「どこへ行く、島の救急ヘリ~続・ヘリコプターを私にください~」(2011・日本民間放送連盟賞 優秀/ギャラクシー賞 奨励賞)、「シリーズ 復帰を知る」(2013・ギャラクシー賞 報道活動部門 優秀賞)、「おなじ空の下で」(2013・ギャラクシー賞 奨励賞)「沈黙を破る時~米軍機墜落の恐怖、今なお」(2013・ギャラクシー賞 奨励賞/報道活動部門 奨励賞/ FNSドキュメンタリー大賞 特別賞)、「まちかんてぃ~明美ばあちゃんの涙と笑いの学園奮闘記」(2015・日本民間放送連盟賞 優秀)。
「菜の花の沖縄日記」(2018年・日本民間放送連盟賞 優秀/第38回「地方の時代」映像祭 グランプリ)。
2020年2月~/3月28日~東京・ポレポレ東中野、全国順次公開の映画「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」で監督を務める。